宮島にいくとお土産屋さんが軒を連ねる賑やかな表参道でもみじ饅頭やら目移りしながら歩くことが観光客の定番コースといえるでしょう。

 

しかし、一本裏の町屋通りを歩くと人通りが少なく、通りに点在する江戸時代から戦前までの古い町家建築を見ながらゆっくり歩くことができます。

宮島の伝統的な町屋の屋根は切妻平入で屋根勾配が緩やかです。通常の瓦葺きは4~4.5寸勾配程度が主流。(勾配は、水平方向水平距離10寸に対しての高さで求める。)対して宮島は3~3.5寸勾配。

 

その理由は、もともと宮島の町屋は板葺きに杉皮を葺くというスタイルがスタンダードでしたが、近代、瓦葺きに葺き替えの際、そのまま杉皮の上に瓦を葺いているのです。そのため、屋根瓦であっても3.5寸勾配という緩やかな屋根勾配になっています。

なんとなく歩いていると見逃してしまうような事。でもその土地の風土の特色があらわれています。そういったもの一つ一つが多様性のある町並み、景観を守るうえで大切であると改めて感じました。

平安時代中期までは、格の高い建築物として寄棟が主流でしたが、同時代中期以降は入母屋造が圧倒的に多くなってきます。

弥山本堂の寄棟
弥山本堂の寄棟

建物に奥行きを持たせることが求められる時代になり、構造上隅木を本棟まで架け渡す必要がないという点と、重々しい屋根を小さく見せるデザイン性の面でも入母屋造が適していたようです。

西方寺の入母屋造
西方寺の入母屋造

また、安土桃山時代からは、織田信長や豊臣秀吉が装飾として唐破風(玄関・門・神社の屋根部などのそり曲がった曲線状の装飾)を多く用いるようになり、江戸時代に建てられた徳川家康の建築物にも多く見受けられます。

弥山霊火堂の唐破風
弥山霊火堂の唐破風

古来、日本の建築においては、接合箇所に付加的に釘や鎹(かすがい)を使うことはあっても、金物の使用により補強は行わないのが原則です。この金物を使わない継手・仕口は、部材の取替えや、解体修理を容易にし、建物の長寿命化を図ってきました。

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2つの材を長手方向につなぐ接合を継手(つぎて)、2つ以上の材を角度をもたせて組み合わせる接合を仕口(しくち)と言います。

 

継手・仕口のほとんどは基本的ないくつかの単純な形(基本形)とそれらを組合せた形(合成形)から出来上がっています。

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その特色としては、見え掛かり部分は単純にし、建て方後の木材の伸縮、反り、捩れに対しての配慮、材の断面欠損をできるかぎり少なくする工夫、大きな力に抵抗するために組合せ部分に隙間ができないような工夫、などが施されています。

釿とは、柄が湾曲し、その先に刃が柄と直角になるように取り付けられた斧の一種です。材料の表面加工や荒い仕上げにも広く用いられてきた道具です。

 

今日の鉋(カンナ)が発明される以前は、ちょうなで表面を荒削りにし、槍鉋でより表面を平らに仕上げていました。

釿は古くからある木道具で古墳などからも出土しています。弥生時代の登呂遺跡の木材にも釿の痕跡がみられるそうです。

釿で削った痕は波形になり、手仕事ならではの趣ある木の表情がでます。

 

現在ではあまり使われなくなった伝統道具の釿。宮大工は丸太作業の斫りなどで現在も使用します。

ちょうな
徳岡工務店・棟梁のちょうな

厳島神社(宮島)へ向かう表参道の途中、鹿や海に目を向けがちですが、石垣の方にも目を向けてみてください。

 

宮島の石垣
大きな縦使いの石

 

よくみてみると横方向に目地がとおっていない乱積で積まれています。

 

乱積みは安土桃山時代以降に用いられた目地にこだわらず不規則に積み上げる方法です。

そして石垣の出隅は、隅に長辺と短辺を交互に積み重ね隅の強度が高める算木積といわれる手法を用いられています。

 

 

算木積は天正年間(1573~92)に始まったといわれています。しかし、そのころの算木積の技術はまだ未完成で、偶然細長い石が手にはいったときに交互に積み重ねただけでした。そのため算木積になっていたとしても一部のみだったり、長辺が短辺の二倍より短い石も使われ、最下段に大きな堅石がつかわれることもしばしばみられます。

 

 

この隅石は、最下段には大きな石を縦に使ってあり、短辺が引っ込んで凸凹が目立ち未熟な面が残っています。いわゆるやせ石垣です。石の切り出しも技術の発達とともに100°~110°で成形され、短辺方向の引っ込みもなく整然した算木積になります。これは見た目も美しくつまれることの他に不要な凸凹がなくなることにより地震などで飛びださないなど強度、構造上の利点もあります。

 

 

そんな算木積の技術の確立は関ヶ原の戦い以降の長十年(1605)年といわれています。

 

その定義は、

  • 長短辺比率が1:2以上であること。
  • 短辺がへこまないこと。
  • 成(せい)がそろうこと。

 

 

この石垣の上に建つ豊国神社(千畳閣)の歴史からも、安土桃山時代のものであることは明らかですが、石の積み方や隅石の精度からも、石垣技術の大成時期と比較検討し、築城年代の推測ができることになります。

ついつい、お城や社寺建築に目を向けがちですが、石垣の積み方に注目してみて古い建築、史跡などを散策するのもまた違った楽しみ方ができるかもしれませんね。

 

桁などの横架材の荷重を分散するために、柱と横架材の間に斗栱(ときょう)という部材を挟みます。

 

斗栱
通し柱の上に、斗(ます*1)と肘木(ひじき*2)を組み合わせ、軒からの伝わる屋根を支える役割を持ちます。

 

*1 斗:構造を支えるサイコロ状の部材。
*2 肘木:桁の荷重を分散させるための柱の上に設置する短い横架材。

 
摩尼殿
軒が深くなるほどその垂木を支えるために、斗栱を一手、二手、三手と組み上げていきます。

昨年、国の登録文化財に指定された東城町のヤマモトロックマシーン。

昭和9年~12年造の建築で、現在も現役で稼働中の貴重な木造の工場建築です。

 

建屋の正面外観は教会建築を想起させる姿です。

ヤマモトロックマシン外観

小屋組みはトラス構造で、木造でも長距離のスパンをとばせるので大空間がひろがります。また、曲げに強く、重量のあるクレーンを吊るのに耐えうる強度をもっています。

ヤマモトロックマシン構造

使用木材は、昔よく民家の土台に使われていた腐りにくく、堅い栗の木が使用されおり80年たった今でも狂いもないという事です。

木部は油や煤で黒くなり長年稼働している工場の歴史と沿うように経年変化を遂げより強固に見えました。

大空間を保つための美しいトラス、採光を多く取り入れた構造で上部から差し込む光にてらされたトラスの幾何学的なシルエットは、用の美からうまれたなんとも神々しい雰囲気でした。

ヤマモトロックマシン構造

 

見学させていただいた工場棟は私が参加した時には全部で6棟。

それぞれの棟にトラスが少しずつ違う構造をしており、短い見学の時間ではすべてを十分に見切れないくらいの見応えのある建築でした。

 

 

年に数回、一般公開されますので、気になる方はこまめにイベントをチェックしてみてください。

※ヤマモトロックマシンの建物は会社が所有しておりその多くは現在も業務に使用されています。通常内部は非公開です。敷地についてもイベント時など開放時を除き、許可なく立ち入ることはできませんのであしからず。

→facebook: www.facebook.com/YRMPtojo

 

 

追記

弊社も旧自治寮の外階段の修復のお手伝いをさせていただきました。

 

ヤマモトロックマシーン